ひとくちメモ


こ こ ろ
     第77号(2009年3月)
 「こころ」は大事だ、という言葉は日常でもよく耳にします。世間では何事も「こころ」がこもっていなければいけないと言われ、同時にそれは、「こころ」がこもっていれば良いという結論に行き着きます。ここで言うところの「こころ」とは何でしょう?自分の「こころ」を指しているのでしょうか。だとしたら、それはとても曖昧で自分勝手なものになってしまいます。だって、自分の「こころ」ですから、自分に都合の良いことしか取り上げないでしょう?
 
「信心」だってそうです。「信心」を自分が信ずる心と勘違いしてしまうと、これまたいい加減なものになってしまいます。自分の気持ち次第で信じたり信じなかったりと、こんな適当なことでは頼りなくて仕方ありません。親鸞聖人は「信心」は仏様からいただいた「こころ」とおっしゃっています。自分で生み出す「こころ」ではなく、教えていただいてやっと生まれてくる「こころ」なのです。
考えてみれば私達は出遇ったものによって、どんな「こころ」をも芽生えさせます。やさしい人と出遇えばやさしい「こころ」を、いじわるな人と出遇えばいじわるな「こころ」が自分の中に生まれます。だから大切なことも誰かに教えていただかなければわからないのです。そんな未熟な自分であることに気付けたら、多くのことを学べるのです。
 自分の未熟さは、経験を積めば積むほ
ど、能力を延ばせば延ばすほど気付き難くなっています。その自分にとっては都合の悪い部分を厳しく指し示す仏様の教えは、日常の「こころ」よりももう少し深いところに光を当てて下さいます。まさに宗教が開いていく「こころ」です。   
                         合 掌